10月ももうすぐ終わる。コンサートも、シンフォニー・コンサートだとオーケストラはぼちぼちフル編成に戻るだろうか。
この1曲が青春を支配した
青春を捧げたバンドや曲というものが、音楽嫌いということでなければ誰にでもあるだろう。今日はそんなお話。
以前、クラシック音楽との馴れ初めについて下記の記事で語った事がある。
それにも書いたとおり、マーラーはかなり心に訴えかけるものを感じた。マーラーとの出会いはこの記事にも書いた。
《悲劇的》との出会い
4日目の記事に書いた通り、人生の最も不幸な時期の一つを過ごしたのが高2の頃で、第6番を初めて聞いたのは秋だったと思う。
そんなときでも音楽が寄り添ってくれる。同級生のヴィオラ弾きがヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による録音をいくつか貸してくれて、そのうちの一つが第6番の録音だった。
数年後に別の録音を聞くことになってその時からはハンマーの打撃音に金属音が加わるのは違和感しかないが、聞いている人間の心をも砕こうとするような意思を感じることは今でも変わりはない。何度も何度も聞いた。授業中でもハンマーの打撃音が頭から離れることはなかった。
テンシュテットのライヴ録音
大学に入ってからは自分の使うことのできるお金も増え、CDを集めるようになった。初めて買った交響曲全集は、ドイツ・グラモフォンから出ているバーンスタインによる2回目のものだった。
様々な演奏スタイルを経験して、各声部がスッキリと聞こえるものを好むようになってからはすっかり聞かなくなったが、この頃はカンバスに原色の画材をチューブから直接塗りたくるような濃ゆい表現に嵌って「これこそマーラー」と思っていた。
濃い味のマーラー、それを好んだわたしは、他の作曲家の指揮では評価していたブーレーズやクーベリックによるものを聞いても見向きすることがなかった。そんなマーラー青年がテンシュテットと出会うまではそう時間はかからなかった。
やはりこの録音も聞くことがなくなってしまった。どこを切り取っても容赦がない。第1楽章第2主題やアンダンテの持つ美しさは他の演奏では多少は感じられる甘美さもテンシュテットは与えはしなかったし刻みは顔面を殴りつけに行くような勢いだ。ならばハンマーは言うまでもない。
生活の中で落ち込んでいるとき、たまに気を抜いたらハンマーの打撃音が頭を駆け巡る程度には嵌った。高2のときに初めて聞いてからしばらくの間を追体験するような強い印象を与えた録音だった。この記事を公開したらに久々に聞いてみよう。
その後のマーラーとの付き合い
高校2年生の頃から10年以上、マーラーの楽曲を収録したCDを買ったり、彼の交響曲を演奏するコンサートに出かけたものだ。2015年にチョン・ミョンフン/東京フィルハーモニー交響楽団による交響曲第5番嬰ハ短調のコンサートに足を運び、ついに交響曲を全曲聞けたのは大きい達成感を得たものである。
今では、大学生になる直前から聞き始めたブラームスのヴァイオリンとピアノのためのソナタや交響曲第1番を聞く頻度が最も高いものの、彼やラヴェル、シューマン、ラフマニノフ、フォーレ、ブーレーズと共に大切な作曲家の一人であり続けるであろう。
今《悲劇的》で最も好みの録音を挙げるならば、それはサイモン・ラトルが首席指揮者としてのラストシーズンを締めくくる演奏会の録音だ。
Mahler: Symphony No. 6 / Rattle · Berliner Philharmoniker
ノイマンやバーンスタイン、テンシュテットの《悲劇的》は1回の体験で受ける衝撃が大きくてその後の付き合いは遠のいたが、ラトル/BPhによるものは与える衝撃はほどほどに強くて付き合い続けることができるものだと思う。