書讀む月日

言葉の数だけ世界は拡がる

クラシック音楽、未聴音源が山となる問題〜聞き手の成長を構成するものとは 編

前回のまとめ】軽音楽が編集技術の向上や記録媒体の発展にかかわらず一曲の長さにはそれらの要素は影響しないので一曲の長さは変わらず、更にはサブスクリプションサービスの展開で音源購入の必要すらなくなった。クラシック音楽でも編集技術の向上や記録媒体の発展、サブスクリプションサービスの展開はなされているのに何故未聴音源はできてしまうのか。そう問題を提起した。最後に、この記事で聞き手の成長とは何かを考えていくことを提示したところで終わった。

 

先ずは聞き手の成長を構成する要素を挙げていこう。端的に云うと、知識の獲得と、視聴経験の積み上げ。この2つの要素で聞き手は成長するのだ(いつまでも成長しない人は往々にして存在する。しかし成長する聞き手はやはりいるものだし、わたしもそう在りたいと思っている)。

知識の獲得と視聴経験。この2つそれぞれについての詳細やそれぞれが聞き手の成長にどう結びつくかを考えていきたい。

1つ目の要素であるクラシック音楽における知識は、表情記号や調性、形式といった音楽用語・理論や、作曲家とその作品における特徴、演奏家、そしてなんといっても楽曲そのものである。

知識は感性を磨き楽しさを見つけ増大させるのには欠かせない。不変の感性では次々と楽しみを見出すことは難しいだろう。また、基礎的な知識を持つことで発展的な知識を持つことが可能となる。楽器演奏や評論、音楽学を志すものでなければ楽譜が読める必要はないが、旋律や主題の発見、その変化を聞いて感じ取る能力を伸ばすには知識の質や量の向上なしには成し遂げられない。

音楽にまつわる知識を増やしたところで楽曲を視聴しなければ何も始まらない。知識の獲得や評論や音楽学の手段としての音楽鑑賞は成り立つが、それを伴わない鑑賞自体は知識獲得の手段やそれを目的としているものではない。楽曲を視聴することそのものが目的である。曲を知らずに鑑賞は成り立たないのだ。

また、楽曲を演奏する人々は楽曲に次いで大切な存在である。演奏がどんな楽器を用い、どのような理論に基づいて演奏しているか…それがわかれば鑑賞を深くすることができる。

2つ目の要素、視聴経験に関しては、音源や映像の視聴と、演奏会の鑑賞に分けることができる。音源は購入するものとしてはCDやサブスクリプションサービスがあり、無料ではラジオ放送がある。映像はDVDやBlu-ray Disc、やはり管弦楽団が配信する動画サブスクリプションサービスがあり、無料有料を限らないが、You Tubeニコニコ動画など企業が提供する動画配信サービスや放送局などが行う実況放送がある。それを使えば自ずと楽曲の鑑賞ができる。

演奏会は有料無料や作曲で用いられた編成と会場の大小を問わず全世界で行われており、それに赴けば楽曲を鑑賞する事ができるのは自明のことである。

音源や映像の視聴や、演奏会に赴くことで音楽鑑賞ができ、更には知識の一つである楽曲を知り、鑑賞を深めることができる。

以上、知識とその獲得、視聴経験が聞き手の成長の要素である。これらは両輪の存在であり、どちらが欠けても音楽鑑賞は成り立たない。知識は鑑賞の手段や対象であり、演奏会は鑑賞の手段でもあり場でもある。

 

今日は疲れたのでここで終えることとしよう。続きは、聞き手の成長そのものと、それがどう未聴音源の発生や増加を促すかを考えていきたい。

【今日のおまけ動画】

今日はコミックマーケット第97回の開催2日目で、わたしのTwitter艦これ用アカウントで繋がっているお二方が作った本の購入を目的にそこに行った。その旅路の車中で聞いたものを。

1973年にベルリンのフィルハーモニーで収録された、ピアノ独奏:アレクシス・ワイセンベルク、指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン管弦楽ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による演奏。


ピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)

今年の音楽を考えるための記事は本記事で最後である。次回は今年演奏した作品についての続きやコミケで購入した本の感想を書きたい。

未聴音源についての記事の続きは1月2日に更新したい。