書讀む月日

言葉の数だけ世界は拡がる

6日にTwitterを賑わせた話題で人生の目的や人文学の必要性について考えた(後半)

一つの記事が長くなってしまったので前半と分割した。

もう一つの話題については明言しない。一言、騒動があったとだけ書けば察する人も多いであろうから省く。こんなことは書きたくないし思い出したくもない。

指摘することがあるとすれば、その騒動に対する反応に思う不気味さである。騒動に対し悲観する声に対し「人間は昔から本質は変わらない。そうしたものだから悲観するほどのものじゃない」というリアクションである。また、

わたしは騒動そのものが悲しいことであるしそれに対し嬉々として拡散しようとすることに違和感を抱く。というのも、人の心をわかろうとすることは常々蔑ろにされているが、こと学問に関しては、わたしが学部生として関わっている人文学に対し不要論が高まっていることに由来しているからだ。わたしも人文学に対し、これがなんの役に立つのかと疑問を懐き続けていたし、文学部を進路に選んだことさえごく最近まで後悔していた。数学で点数が取れずに進路から省いた自然科学は実は肌に合うものであったのかもしれない、文系を選んだら選んだで、政治学や経済学の側面からエネルギー政策を考えるほうが良かったのかもしれない。

真実という言葉は胡散臭くて嫌いだ。東日本大震災直後では「語られていない真実」という言葉が反原発屋や陰謀論者によって都合良く使われているのが不愉快でならない。ここでは深く立ち入らないが、わたしの信条としてこう書いている。

 真実を探求しようとしてわかるのは真実ではなくて、事実をより細分化された事実である。こういう風に考えているのでは人文学はわたしにはできないと思っていた。人文学は真実を探求するものだと捉えていたのだ。

これは誤った認識であった。人文学、扱われる人の心や人の生み出す文化について考えることは、いくらでも細分化できる事実とは違った捉え難い別のものだと考えていたのだ。真実なんて大層なものはない、このスタンスを貫いていれば、人文学だって細分化できる事実を分析しわかることを探求するものだと捉えることができたのだ。真実という言葉にとらわれていたのは、あれだけ蔑んでいる陰謀論者と同様、わたしだったのである。

存在するからには有益でなければならない。人文学の必要性や目的の一つは、正に「人の心をわかること」にある。これこそ自然科学や社会科学にはできないものではなかろうか。人文学には人文学の方法、つまり事実の細分化や仕組みの把握、そしてその方法を探求することがある。一介の学部生でありながらもそれを世に示したい。そう昨日決意した。

話を引用したツイートに戻そう。人が昔から変わらないことに関していえば、全員が変わらなければいけない理由などないし、全員を変えようとするのは傲慢なことである。但し、件の騒動や同様の事柄に悲観し「人が昔から変わらないこと」に深刻さを感じるならば人文学を学んだりその叡智を享受することで、学んだり享受した人の周囲に伝播して一人でも多く、洋介犬氏のいう「変わらないこと」から「変わること」ができるであろう。確かに人文学には即効性は期待できないのでそう人の変革に可能性を感じることは難しい。しかし、試みることは重要な営みなのだ。

さあ、先ずは「変わらないこと」を疑うことから始めよう。